2009年08月18日

065:選挙(磯野カヅオ)

天翔ける与謝野馨に歌詠みの選挙に出馬せし祖父のあり
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064:宮(磯野カヅオ)

咲きわたるキバナコスモス金星の花辺なぞらふ浜離宮かな
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063:ゆらり(磯野カヅオ)

岸遥か水上バスに七組のアベックゆらり寄り添ひにけり
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062:坂(磯野カヅオ)

浴衣着て喧騒厭ふ肩越しに遠花火散る陸橋の坂
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061:ピンク(磯野カヅオ)

目に映る遠景染むるピンク率高き渋谷に蝉囂し
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060:引退(磯野カヅオ)

身を尽くし引退近きパソコンの応答疎き秋とならまし
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059:済(磯野カヅオ)

処暑の宵 転居の支度遅々として梱包済みの箱と眠れり
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2009年08月16日

与謝野鉄幹のこと(鉄幹編)。

今日は、与謝野鉄幹のこと。

与謝野鉄幹の略歴については"寛編"をご覧ください。


○情すぎて恋みなもろく才あまりて歌みな奇なり我をあはれめ(『紫』)
○輝やかにわが行くかたも恋ふる子の在るかたも指せ黄金向日葵(『毒草』)
○大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙のながるるものを(『相聞』)
○いにしへも斯かりき心いたむとき大白鳥となりて空行く(『相聞』)
○しよざいなさ動物園の木の柵に面いだしたる駱駝ならねど(『鴉と雨』)


"寛編"では書いていない、しかし与謝野鉄幹のことを語る上では欠かせないエピソードを以下にもう少し書いてみます。

例えば、寛は明治28年から明治30年にかけて、韓国へ三度行っています。最初は、日本文化と日本語普及を目的とした乙未義塾という学塾の教師という立場で渡韓したのですが、それ以外にも商業的な目的があって(要は儲け話ですが)何度か渡韓したものと思われます。この点は、なんというか、野心的な、もう少し書いてしまえば山師的な、そういった素養も持ち合わせていたと見られることにつながっているようです。

それから、鉄幹には、晶子以外にも複数の女性の影がありました。晶子と結婚する以前には二人の内縁の妻がいて、それぞれに子どもも授かりました。二人目の内縁の妻である林滝野は『明星』創刊時の発行人兼編集人となっており、『明星』創刊当時の費用は滝野の経済的援助に因る部分が大きかったようです。また、晶子との間には実に十二人の子どもに恵まれましたが(うち一人は死産)、晶子と結婚した後も、別の女性のこと詠んだと思われる短歌があったりもします。


一方で、鉄幹の幼年and青年時代はとても貧しく、それは晶子と結婚してからも同様で、ほとんどいつも"金欠状態"の鉄幹(&晶子)だったようなのですが、落合直文からは過分とも言える庇護を受けたり、『明星』創刊の際には滝野がいたり、その後の『明星』刊行にも寄付が集まったり、歌集には森鴎外が序文を載せていたりと、何のかのと与謝野夫妻の力になってくれる人にも恵まれていたように思います。


浪漫主義時代の人間あるいは浪漫主義者は大きく三つの型に分けられるそうで、(初期の)鉄幹はイギリスの詩人である"バイロン型"にあてはまるそうです。すなわち「何かにつけ爆発的衝動を伴うがゆえに、行動に方向がなく、変化が多様で、目標が常に動く」というタイプ。

この表現は言い得て妙で、鉄幹の性向が端的に挙げられているのではないかと、僕は感じます。


与謝野鉄幹個人に焦点を絞って書かれた本は少なく、晶子と併せて、あるいは晶子に重きを置いて書かれた本がほとんどです。以下にオススメの本をいくつか紹介してみます。

「与謝野鉄幹」(中皓、桜楓社)
与謝野鉄幹個人について書かれた数少ない本です。鉄幹の出生から業績、晩年までが簡潔にまとめられていて、短歌の鑑賞も行われています。この一冊を読むだけで、鉄幹のことは概ね分かるような気がします。

「与謝野鉄幹-鬼に喰われた男-」(青山史、深夜叢書社)
比較的新しく、比較的平易に書かれた本です。最近(昭和56年)になって判明した鉄幹の初恋の人(?)のことについても書かれています。やや"鉄幹びいき"の感もありますが、与謝野鉄幹の良さが分かる一冊です。

「与謝野鉄幹研究」(永岡健右、おうふう)
旧字体の引用文が多いので、上記二冊のようにさらっと読むというわけにはいかない一冊ですが、広範に渡って著者の考察が含まれており、鉄幹出馬時のことなども丁寧に書かれています。

「評伝与謝野鉄幹晶子」(逸見久美、八木書店)
明治43年までの鉄幹と晶子の遍歴が詳細にまとめられています。鉄幹&晶子の研究本としては名高い一冊なので、鉄幹&晶子ファンにとっては必読の本ということになると思いますが、如何せんボリュームがあるので、他の軽めの晶子本などを読んでからの方がよいと思います。

「明治大正文学史」「浪漫主義研究」(吉田精一、桜楓社)
例えば浪漫主義の概略を知ろうとすることは、必然的にその前後の文学思潮なども知ることにつながります。上記の二冊はその助けとしてとても参考になると思います。


「晶子曼荼羅」(定本佐藤春夫全集第13巻所収、臨川書店)
「晶子の恋と詩」(「明治の青春」改題)(正富汪洋、山王書房)

与謝野晶子(&鉄幹)について書かれた小説、随筆です。

「晶子曼荼羅」は与謝野晶子の伝記でも評伝でもなく、あくまでも与謝野晶子という人を主人公にした小説であり、若干のフィクションも含まれています(←著者もそのように述べている)。

この小説の反対側にあるものとして位置付けられるのが「明治の青春」の内容です。正富汪洋は、与謝野鉄幹の内縁の妻であった林滝野の後年の夫です。鉄幹や晶子に関することや、「晶子曼荼羅」で滝野のことについて書かれた部分に関する滝野の見解(反論)などが、正富汪洋によって書かれています。

読む際には、どちらも読むことをオススメします。


※与謝野鉄幹の詩歌等については、「明治文学全集51与謝野鉄幹晶子集」(野田宇太郎編、筑摩書房)などを参照のこと。


与謝野鉄幹は、歌人としての実績以外に多くのエピソードを持つ人物であり、味方になってくれる人と同じくらい、敵も多かった人なのだなあというのが、僕の鉄幹像です。晶子の陰に隠れがちな鉄幹の破天荒ぶりは実に興味深く、単純に"与謝野鉄幹は素晴らしい人だ"と言わせないところが鉄幹の魅力であり、それが、僕が鉄幹のことをブログに書くことにした理由なのだと思います。


またいつか、誰かのことを書きたいです。
 
 
posted by 磯野カヅオ at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

与謝野鉄幹のこと(寛編)。

今日は、与謝野鉄幹のこと。

与謝野鉄幹[1873-1935]は、近代短歌の発展に大きく貢献した歌人です。日本における後期浪漫主義を象徴する雑誌『明星』創刊に深く携わり、当時の文学界にも影響を与えました。

鉄幹は良くも悪くもエピソードに事欠かない人なので、"寛編"では略歴とともにその一部を書いてみたいと思います。

1873(明治6)
山城国愛宕郡第四区岡崎村(現京都府左京区岡崎)の願成寺(浄土真宗)に、父礼厳と母ハツヱの四男として生まれます(六人兄弟妹)。
※この父礼厳は浄土真宗の僧であると同時に歌人でもありました。

1878-1880(明治11年〜明治13年)
礼厳はさまざまな事業に手を出してことごとく失敗し、時期を同じくして願成寺が廃寺となり、礼厳(一家)は開教師として鹿児島へ移り住むことになります。

1881-1891(明治14年から明治24年)
その後、一家は京都へ戻るも、寛は大阪(寺を継ぐ僧として養子に出される)、岡山(長兄大円の許に身を寄せる)、山口(次兄照幢の許に身を寄せ教壇に立つ)などを、転々とします。

※長兄大円は幼い頃に既に実家を出されており、三兄巌は1885年(明治18年)に失踪してしまいます。また、長兄大円を筆頭に、次兄照幢、弟修、妹シヅまで、皆文才があったということです。

1892(明治25年)
寛は、再び京都に戻ります。父礼厳は寛が僧になることを望んでいましたが、寛はそれを望んでいませんでした。そして母ハツヱの後押しを受けて、東京に出ることになります。

同年、寛は山口時代から傾倒していた落合直文と出会い、師事することになります。この落合直文との出会いは、寛にとってはとても大きな出来事であり、以後は落合直文の庇護と指導を受けることになります。

1893-1895(明治26年から明治28年)
落合直文を中心とした短歌革新グループ「浅香社」が創設され、寛もその中心メンバーとして活動することになります。

また、1894年(明治27年)には歌論「亡国の音」を発表し、寛は短歌革新を叫びます。近代短歌革新の狼煙を上げたのは、正岡子規よりも鉄幹の方が先であり(先だから短絡的に偉いとできるわけでもないのですが)、近代短歌の発展に大きく貢献したというのはあながち間違えでもないというわけです。

1896(明治29年)
『東西南北』刊行。与謝野鉄幹としての第一詩歌集です。"ますらおっ気"たっぷりの短歌が発表され"虎剣調(の歌)""虎の鉄幹"と称されました。

1900(明治33年)(鉄幹27歳)
新詩社結成、そして『明星』創刊。創刊当時には、落合直文、金子薫園、佐佐木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、薄田泣菫、蒲原有明、泉鏡花など、錚々たる顔ぶれが寄稿しています。
また、『明星』には上田敏訳の「海潮音」が載るなど、その存在意義はとても大きなものだったと考えることができます。

1901(明治34年)
俗に言う「文壇照魔鏡事件」が起きます。鉄幹を中傷する文書が出回りました。鉄幹は、いわゆる"犯人"と思われる人物を相手に訴訟を起こしましたが、証拠不十分で敗訴、この事件を機に『明星』は大きく同人を減らすことになりました。

同じく1901(明治34年)、第四詩歌集にあたる詩歌集『紫』刊行。『東西南北』の時とは違う、いわゆる"星菫調"を思わせる"紫の鉄幹"の詩歌が発表されました。この時には既に晶子と出会っており、晶子の影響を受けたと評されることもありました。

1902(明治35年)(鉄幹29歳,晶子24歳)
この年に、鉄幹と晶子は入籍します。また、この頃には、京都、大阪、神戸、岡山、名古屋、長岡、出雲、熊本、羽後、上毛、長崎、石見、横浜、伊賀、函館などに新詩社の支部が設けられていました。

1904(明治37年)
晶子との合著詩歌俳句散文集『毒草』刊行。歴史的長編叙事詩『源九郎義経』(合作)の鉄幹担当分が収められています。この『源九郎義経』は、発表当時にも高く評価されました。

1908年(明治41年)
『明星』が第百号をもって廃刊となります。財政難が主な理由ですが、直前に北原白秋、吉井勇、木下杢太郎ら主要な同人七名が新詩社を脱会しています。

1910(明治43年)
第七作目にあたる歌集『相聞』刊行。発表当時はほとんど評価されませんでしたが、後年、吉井勇や釈超空などがこの歌集を高く評価しています。

1911-1913(明治44年12月から大正2年1月)
船で渡欧します(主にフランス)。この遊学の実現には晶子が尽力したようです。評論、エッセイ、小説などを次々と発表して生活の糊とすると同時に、鉄幹を再生させるべく渡航費用を捻出しました。
※鉄幹を行かせて、その後に晶子も渡欧するのですが。

1915(大正4年)
京都府より衆議院議員選挙に出馬し、落選しています。出馬については晶子も含め周囲に反対されたようですが、出馬に関する発言などにおいては、渡欧経験が大きく影響していたようです。

1935(昭和10)
慶応病院にて、肺炎で死去。62歳の生涯でした。


近代短歌革新の先駆者であった与謝野鉄幹でしたが、1901年(明治34年)の『みだれ髪』刊行後の与謝野鉄幹は"与謝野晶子の夫"という肩書が主となり、注目を浴び続けたのは晶子の方でした。


"鉄幹編"では、与謝野鉄幹を知る手掛かりとなるものなどについて触れてみたいと思います。
 
 
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