2008年07月27日

斎藤茂吉のこと(斎藤編)。

今日は、斎藤茂吉のこと。

斎藤茂吉[1882-1953]は近代短歌史における代表的な歌人です。伊藤左千夫に師事し、大正から昭和前期にかけてのアララギ派の中心的存在でした。

○赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり(『赤光』)
○のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(『赤光』)
○草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ(『あらたま』)
○家鴨らに食み残されしダアリアは暴風の中に伏しにけるかも(『あらたま』)

斎藤茂吉の短歌については、時代背景や茂吉の閲歴などを知っていた方がより理解が深まる面もあったりするので、"斎藤編"では茂吉の略歴をごくごく簡単に。

山形県の金瓶村というところに生まれた茂吉は、小学校、高等科を卒業した後、病院の跡継ぎ候補として東京に上京(1896)、医学部に進学、卒業(1910,茂吉28歳)、そして東京帝国大学医科大学付属の巣鴨病院に研究生として勤めることになります(以後は精神病学を専攻)。

しかし、その三年後(1913)に生母いく、師の伊藤左千夫が相次いで急逝。第一歌集『赤光』の「死にたまふ母」「悲報来」ではこの時のことが詠まれています。

その後、長崎に赴任していた時期があり(1917-1921)、この頃に第二歌集『あらたま』を刊行。ちなみに、続く第三歌集『つゆじも』は、この時から実に25年後に刊行されることになるのですが、この点については、また別のところで("茂吉編"で)少し書いてみたいと思います。

※これ以後の歌集の刊行についてはひとまず概ね省略。

続いて、茂吉は欧州留学の旅に出発します(1921,1922)。
二年後(1924,茂吉42歳)には論文を完成させ、医学博士の学位を受け、その年の末には帰国するのですが、この時、"実家"という位置付けであるところの青山脳病院が全焼したという報せを受け取ることになります。この出来事により、茂吉の蒐めた蔵書類なども全て燃えてしまいました。

茂吉は青山脳病院の再建を担う立場となり、金策などにも奔走(1925)、そして青山脳病院の復興(1926)、さらに、青山脳病院院長に就任(1927)することになります。

50代前半は、柿本人麿の研究に力を注いでいたといっていいのでしょうか。院長を辞めることを決意したりもしましたが(1934)、結局は週一回(週二回)の診察を行うということになりました。またこの年には『柿本人麿(総論篇)』を刊行、後に『万葉秀歌』(上・下)なども刊行されています(1938,茂吉56歳)。

※歌集『白桃』『暁紅』『寒雲』の制作も行っている(1933-1939)。

そして、第二次世界大戦開戦−敗戦期(1940-1945)です。
この時、稀な例外は別として、この大戦の「聖戦」讃歌、「皇軍」不滅歌を歌わなかった歌人はいなかったそうです。茂吉も沢山の、いわゆる"戦争詠"を作りました。

戦争に伴って茂吉も東京を離れ、故郷金瓶に単身で疎開します(後に妻と同居)。青山脳病院は空襲で全焼し、敗戦を迎えることになります。
そして翌年(1946)には、疎開先を大石田に変え(大石田は金瓶から50キロほど北に位置する町)、約一年八ヶ月を大石田で過ごすことになります。この疎開の時期に詠まれた短歌は、生前最後の歌集となった『白き山』に収められています。

それから、茂吉は東京に戻ります(1947)。
そして、文化勲章の授与(1951)、「斎藤茂吉全集」(第一巻)の刊行(1952)などが為され始めますが、最終的には心臓喘息で亡くなりました(1953)。

茂吉の生涯を詳しく追ってみると、なんとも波乱万丈というか、時代の変遷とともに生きた歌人だったのだなということがよく分かります。


"茂吉編"では、斎藤茂吉を知る手掛かりとなるものなどについて触れてみたいと思います。


※略歴については、「茂吉の短歌を読む」(岡井隆、岩波書店)、「鑑賞日本現代文学H斎藤茂吉」(塚本邦雄編、角川書店)に因る。
 
posted by 磯野カヅオ at 02:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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