2009年08月16日

与謝野鉄幹のこと(寛編)。

今日は、与謝野鉄幹のこと。

与謝野鉄幹[1873-1935]は、近代短歌の発展に大きく貢献した歌人です。日本における後期浪漫主義を象徴する雑誌『明星』創刊に深く携わり、当時の文学界にも影響を与えました。

鉄幹は良くも悪くもエピソードに事欠かない人なので、"寛編"では略歴とともにその一部を書いてみたいと思います。

1873(明治6)
山城国愛宕郡第四区岡崎村(現京都府左京区岡崎)の願成寺(浄土真宗)に、父礼厳と母ハツヱの四男として生まれます(六人兄弟妹)。
※この父礼厳は浄土真宗の僧であると同時に歌人でもありました。

1878-1880(明治11年〜明治13年)
礼厳はさまざまな事業に手を出してことごとく失敗し、時期を同じくして願成寺が廃寺となり、礼厳(一家)は開教師として鹿児島へ移り住むことになります。

1881-1891(明治14年から明治24年)
その後、一家は京都へ戻るも、寛は大阪(寺を継ぐ僧として養子に出される)、岡山(長兄大円の許に身を寄せる)、山口(次兄照幢の許に身を寄せ教壇に立つ)などを、転々とします。

※長兄大円は幼い頃に既に実家を出されており、三兄巌は1885年(明治18年)に失踪してしまいます。また、長兄大円を筆頭に、次兄照幢、弟修、妹シヅまで、皆文才があったということです。

1892(明治25年)
寛は、再び京都に戻ります。父礼厳は寛が僧になることを望んでいましたが、寛はそれを望んでいませんでした。そして母ハツヱの後押しを受けて、東京に出ることになります。

同年、寛は山口時代から傾倒していた落合直文と出会い、師事することになります。この落合直文との出会いは、寛にとってはとても大きな出来事であり、以後は落合直文の庇護と指導を受けることになります。

1893-1895(明治26年から明治28年)
落合直文を中心とした短歌革新グループ「浅香社」が創設され、寛もその中心メンバーとして活動することになります。

また、1894年(明治27年)には歌論「亡国の音」を発表し、寛は短歌革新を叫びます。近代短歌革新の狼煙を上げたのは、正岡子規よりも鉄幹の方が先であり(先だから短絡的に偉いとできるわけでもないのですが)、近代短歌の発展に大きく貢献したというのはあながち間違えでもないというわけです。

1896(明治29年)
『東西南北』刊行。与謝野鉄幹としての第一詩歌集です。"ますらおっ気"たっぷりの短歌が発表され"虎剣調(の歌)""虎の鉄幹"と称されました。

1900(明治33年)(鉄幹27歳)
新詩社結成、そして『明星』創刊。創刊当時には、落合直文、金子薫園、佐佐木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、薄田泣菫、蒲原有明、泉鏡花など、錚々たる顔ぶれが寄稿しています。
また、『明星』には上田敏訳の「海潮音」が載るなど、その存在意義はとても大きなものだったと考えることができます。

1901(明治34年)
俗に言う「文壇照魔鏡事件」が起きます。鉄幹を中傷する文書が出回りました。鉄幹は、いわゆる"犯人"と思われる人物を相手に訴訟を起こしましたが、証拠不十分で敗訴、この事件を機に『明星』は大きく同人を減らすことになりました。

同じく1901(明治34年)、第四詩歌集にあたる詩歌集『紫』刊行。『東西南北』の時とは違う、いわゆる"星菫調"を思わせる"紫の鉄幹"の詩歌が発表されました。この時には既に晶子と出会っており、晶子の影響を受けたと評されることもありました。

1902(明治35年)(鉄幹29歳,晶子24歳)
この年に、鉄幹と晶子は入籍します。また、この頃には、京都、大阪、神戸、岡山、名古屋、長岡、出雲、熊本、羽後、上毛、長崎、石見、横浜、伊賀、函館などに新詩社の支部が設けられていました。

1904(明治37年)
晶子との合著詩歌俳句散文集『毒草』刊行。歴史的長編叙事詩『源九郎義経』(合作)の鉄幹担当分が収められています。この『源九郎義経』は、発表当時にも高く評価されました。

1908年(明治41年)
『明星』が第百号をもって廃刊となります。財政難が主な理由ですが、直前に北原白秋、吉井勇、木下杢太郎ら主要な同人七名が新詩社を脱会しています。

1910(明治43年)
第七作目にあたる歌集『相聞』刊行。発表当時はほとんど評価されませんでしたが、後年、吉井勇や釈超空などがこの歌集を高く評価しています。

1911-1913(明治44年12月から大正2年1月)
船で渡欧します(主にフランス)。この遊学の実現には晶子が尽力したようです。評論、エッセイ、小説などを次々と発表して生活の糊とすると同時に、鉄幹を再生させるべく渡航費用を捻出しました。
※鉄幹を行かせて、その後に晶子も渡欧するのですが。

1915(大正4年)
京都府より衆議院議員選挙に出馬し、落選しています。出馬については晶子も含め周囲に反対されたようですが、出馬に関する発言などにおいては、渡欧経験が大きく影響していたようです。

1935(昭和10)
慶応病院にて、肺炎で死去。62歳の生涯でした。


近代短歌革新の先駆者であった与謝野鉄幹でしたが、1901年(明治34年)の『みだれ髪』刊行後の与謝野鉄幹は"与謝野晶子の夫"という肩書が主となり、注目を浴び続けたのは晶子の方でした。


"鉄幹編"では、与謝野鉄幹を知る手掛かりとなるものなどについて触れてみたいと思います。
 
 
posted by 磯野カヅオ at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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