2009年08月16日

与謝野鉄幹のこと(鉄幹編)。

今日は、与謝野鉄幹のこと。

与謝野鉄幹の略歴については"寛編"をご覧ください。


○情すぎて恋みなもろく才あまりて歌みな奇なり我をあはれめ(『紫』)
○輝やかにわが行くかたも恋ふる子の在るかたも指せ黄金向日葵(『毒草』)
○大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙のながるるものを(『相聞』)
○いにしへも斯かりき心いたむとき大白鳥となりて空行く(『相聞』)
○しよざいなさ動物園の木の柵に面いだしたる駱駝ならねど(『鴉と雨』)


"寛編"では書いていない、しかし与謝野鉄幹のことを語る上では欠かせないエピソードを以下にもう少し書いてみます。

例えば、寛は明治28年から明治30年にかけて、韓国へ三度行っています。最初は、日本文化と日本語普及を目的とした乙未義塾という学塾の教師という立場で渡韓したのですが、それ以外にも商業的な目的があって(要は儲け話ですが)何度か渡韓したものと思われます。この点は、なんというか、野心的な、もう少し書いてしまえば山師的な、そういった素養も持ち合わせていたと見られることにつながっているようです。

それから、鉄幹には、晶子以外にも複数の女性の影がありました。晶子と結婚する以前には二人の内縁の妻がいて、それぞれに子どもも授かりました。二人目の内縁の妻である林滝野は『明星』創刊時の発行人兼編集人となっており、『明星』創刊当時の費用は滝野の経済的援助に因る部分が大きかったようです。また、晶子との間には実に十二人の子どもに恵まれましたが(うち一人は死産)、晶子と結婚した後も、別の女性のこと詠んだと思われる短歌があったりもします。


一方で、鉄幹の幼年and青年時代はとても貧しく、それは晶子と結婚してからも同様で、ほとんどいつも"金欠状態"の鉄幹(&晶子)だったようなのですが、落合直文からは過分とも言える庇護を受けたり、『明星』創刊の際には滝野がいたり、その後の『明星』刊行にも寄付が集まったり、歌集には森鴎外が序文を載せていたりと、何のかのと与謝野夫妻の力になってくれる人にも恵まれていたように思います。


浪漫主義時代の人間あるいは浪漫主義者は大きく三つの型に分けられるそうで、(初期の)鉄幹はイギリスの詩人である"バイロン型"にあてはまるそうです。すなわち「何かにつけ爆発的衝動を伴うがゆえに、行動に方向がなく、変化が多様で、目標が常に動く」というタイプ。

この表現は言い得て妙で、鉄幹の性向が端的に挙げられているのではないかと、僕は感じます。


与謝野鉄幹個人に焦点を絞って書かれた本は少なく、晶子と併せて、あるいは晶子に重きを置いて書かれた本がほとんどです。以下にオススメの本をいくつか紹介してみます。

「与謝野鉄幹」(中皓、桜楓社)
与謝野鉄幹個人について書かれた数少ない本です。鉄幹の出生から業績、晩年までが簡潔にまとめられていて、短歌の鑑賞も行われています。この一冊を読むだけで、鉄幹のことは概ね分かるような気がします。

「与謝野鉄幹-鬼に喰われた男-」(青山史、深夜叢書社)
比較的新しく、比較的平易に書かれた本です。最近(昭和56年)になって判明した鉄幹の初恋の人(?)のことについても書かれています。やや"鉄幹びいき"の感もありますが、与謝野鉄幹の良さが分かる一冊です。

「与謝野鉄幹研究」(永岡健右、おうふう)
旧字体の引用文が多いので、上記二冊のようにさらっと読むというわけにはいかない一冊ですが、広範に渡って著者の考察が含まれており、鉄幹出馬時のことなども丁寧に書かれています。

「評伝与謝野鉄幹晶子」(逸見久美、八木書店)
明治43年までの鉄幹と晶子の遍歴が詳細にまとめられています。鉄幹&晶子の研究本としては名高い一冊なので、鉄幹&晶子ファンにとっては必読の本ということになると思いますが、如何せんボリュームがあるので、他の軽めの晶子本などを読んでからの方がよいと思います。

「明治大正文学史」「浪漫主義研究」(吉田精一、桜楓社)
例えば浪漫主義の概略を知ろうとすることは、必然的にその前後の文学思潮なども知ることにつながります。上記の二冊はその助けとしてとても参考になると思います。


「晶子曼荼羅」(定本佐藤春夫全集第13巻所収、臨川書店)
「晶子の恋と詩」(「明治の青春」改題)(正富汪洋、山王書房)

与謝野晶子(&鉄幹)について書かれた小説、随筆です。

「晶子曼荼羅」は与謝野晶子の伝記でも評伝でもなく、あくまでも与謝野晶子という人を主人公にした小説であり、若干のフィクションも含まれています(←著者もそのように述べている)。

この小説の反対側にあるものとして位置付けられるのが「明治の青春」の内容です。正富汪洋は、与謝野鉄幹の内縁の妻であった林滝野の後年の夫です。鉄幹や晶子に関することや、「晶子曼荼羅」で滝野のことについて書かれた部分に関する滝野の見解(反論)などが、正富汪洋によって書かれています。

読む際には、どちらも読むことをオススメします。


※与謝野鉄幹の詩歌等については、「明治文学全集51与謝野鉄幹晶子集」(野田宇太郎編、筑摩書房)などを参照のこと。


与謝野鉄幹は、歌人としての実績以外に多くのエピソードを持つ人物であり、味方になってくれる人と同じくらい、敵も多かった人なのだなあというのが、僕の鉄幹像です。晶子の陰に隠れがちな鉄幹の破天荒ぶりは実に興味深く、単純に"与謝野鉄幹は素晴らしい人だ"と言わせないところが鉄幹の魅力であり、それが、僕が鉄幹のことをブログに書くことにした理由なのだと思います。


またいつか、誰かのことを書きたいです。
 
 
posted by 磯野カヅオ at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

与謝野鉄幹のこと(寛編)。

今日は、与謝野鉄幹のこと。

与謝野鉄幹[1873-1935]は、近代短歌の発展に大きく貢献した歌人です。日本における後期浪漫主義を象徴する雑誌『明星』創刊に深く携わり、当時の文学界にも影響を与えました。

鉄幹は良くも悪くもエピソードに事欠かない人なので、"寛編"では略歴とともにその一部を書いてみたいと思います。

1873(明治6)
山城国愛宕郡第四区岡崎村(現京都府左京区岡崎)の願成寺(浄土真宗)に、父礼厳と母ハツヱの四男として生まれます(六人兄弟妹)。
※この父礼厳は浄土真宗の僧であると同時に歌人でもありました。

1878-1880(明治11年〜明治13年)
礼厳はさまざまな事業に手を出してことごとく失敗し、時期を同じくして願成寺が廃寺となり、礼厳(一家)は開教師として鹿児島へ移り住むことになります。

1881-1891(明治14年から明治24年)
その後、一家は京都へ戻るも、寛は大阪(寺を継ぐ僧として養子に出される)、岡山(長兄大円の許に身を寄せる)、山口(次兄照幢の許に身を寄せ教壇に立つ)などを、転々とします。

※長兄大円は幼い頃に既に実家を出されており、三兄巌は1885年(明治18年)に失踪してしまいます。また、長兄大円を筆頭に、次兄照幢、弟修、妹シヅまで、皆文才があったということです。

1892(明治25年)
寛は、再び京都に戻ります。父礼厳は寛が僧になることを望んでいましたが、寛はそれを望んでいませんでした。そして母ハツヱの後押しを受けて、東京に出ることになります。

同年、寛は山口時代から傾倒していた落合直文と出会い、師事することになります。この落合直文との出会いは、寛にとってはとても大きな出来事であり、以後は落合直文の庇護と指導を受けることになります。

1893-1895(明治26年から明治28年)
落合直文を中心とした短歌革新グループ「浅香社」が創設され、寛もその中心メンバーとして活動することになります。

また、1894年(明治27年)には歌論「亡国の音」を発表し、寛は短歌革新を叫びます。近代短歌革新の狼煙を上げたのは、正岡子規よりも鉄幹の方が先であり(先だから短絡的に偉いとできるわけでもないのですが)、近代短歌の発展に大きく貢献したというのはあながち間違えでもないというわけです。

1896(明治29年)
『東西南北』刊行。与謝野鉄幹としての第一詩歌集です。"ますらおっ気"たっぷりの短歌が発表され"虎剣調(の歌)""虎の鉄幹"と称されました。

1900(明治33年)(鉄幹27歳)
新詩社結成、そして『明星』創刊。創刊当時には、落合直文、金子薫園、佐佐木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、薄田泣菫、蒲原有明、泉鏡花など、錚々たる顔ぶれが寄稿しています。
また、『明星』には上田敏訳の「海潮音」が載るなど、その存在意義はとても大きなものだったと考えることができます。

1901(明治34年)
俗に言う「文壇照魔鏡事件」が起きます。鉄幹を中傷する文書が出回りました。鉄幹は、いわゆる"犯人"と思われる人物を相手に訴訟を起こしましたが、証拠不十分で敗訴、この事件を機に『明星』は大きく同人を減らすことになりました。

同じく1901(明治34年)、第四詩歌集にあたる詩歌集『紫』刊行。『東西南北』の時とは違う、いわゆる"星菫調"を思わせる"紫の鉄幹"の詩歌が発表されました。この時には既に晶子と出会っており、晶子の影響を受けたと評されることもありました。

1902(明治35年)(鉄幹29歳,晶子24歳)
この年に、鉄幹と晶子は入籍します。また、この頃には、京都、大阪、神戸、岡山、名古屋、長岡、出雲、熊本、羽後、上毛、長崎、石見、横浜、伊賀、函館などに新詩社の支部が設けられていました。

1904(明治37年)
晶子との合著詩歌俳句散文集『毒草』刊行。歴史的長編叙事詩『源九郎義経』(合作)の鉄幹担当分が収められています。この『源九郎義経』は、発表当時にも高く評価されました。

1908年(明治41年)
『明星』が第百号をもって廃刊となります。財政難が主な理由ですが、直前に北原白秋、吉井勇、木下杢太郎ら主要な同人七名が新詩社を脱会しています。

1910(明治43年)
第七作目にあたる歌集『相聞』刊行。発表当時はほとんど評価されませんでしたが、後年、吉井勇や釈超空などがこの歌集を高く評価しています。

1911-1913(明治44年12月から大正2年1月)
船で渡欧します(主にフランス)。この遊学の実現には晶子が尽力したようです。評論、エッセイ、小説などを次々と発表して生活の糊とすると同時に、鉄幹を再生させるべく渡航費用を捻出しました。
※鉄幹を行かせて、その後に晶子も渡欧するのですが。

1915(大正4年)
京都府より衆議院議員選挙に出馬し、落選しています。出馬については晶子も含め周囲に反対されたようですが、出馬に関する発言などにおいては、渡欧経験が大きく影響していたようです。

1935(昭和10)
慶応病院にて、肺炎で死去。62歳の生涯でした。


近代短歌革新の先駆者であった与謝野鉄幹でしたが、1901年(明治34年)の『みだれ髪』刊行後の与謝野鉄幹は"与謝野晶子の夫"という肩書が主となり、注目を浴び続けたのは晶子の方でした。


"鉄幹編"では、与謝野鉄幹を知る手掛かりとなるものなどについて触れてみたいと思います。
 
 
posted by 磯野カヅオ at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月18日

現代短歌協会公開講座を聴講してみる。

今日は、現代短歌協会が主催する公開講座を聴講してみました。

ところ:学士会館(@神保町)
とき:2009年6月18日(木)18:00-20:00

6月のテーマ:『師vs弟子/物申すに不足なし』
パネリスト:馬場あき子,佐佐木幸綱vs大井学,黒岩剛仁
司会:穂村弘

ご存知の方もいると思いますが、現代短歌協会というのは、ある一定の水準を持った歌人を会員とする団体で、創立53年。活動内容等は、ホームページを見れば分かります。

この公開講座、今年は4月から10月まで6回にわたって行われるようで(8月はナシ)、各回は独立しているので、ホームページなどでテーマを見て好きな回を受講できます。有料ですが(各回1,500円)、6回全てを受講する場合には少し割引になります(各回1,000円)。

深い意図があって聴講してみようと思ったわけではなく、たまたまこの公開講座の存在を知ったのと、時間があったのと(要予約なのですが)、いわゆる歌人(or俳人でもよかったのだが)をナマで見てみたかったという、まぁそんなところです。穂村弘さんってどんな声で話すんだろう?とか、気になりませんか。


会場へは早めに着いたつもりだったのですが、それでも既に受付を済ませて開場するのを待っている人たちが15人ぐらいは並んでいて、最終的にはだいたい250席ぐらいあった会場の椅子が全て埋まるぐらいの人たちが聴講のために集まっていました。ちなみにその平均年齢は45歳ぐらいで、8割ぐらいが女性だったと思います。平日の18時に神保町に来られる人というのはある程度決まっているのかもしれませんね。

しばらくして講座がスタートしまして、一応のテーマは「師vs弟子」ということになっていたのですが、そういった図式の話にはなかなかならず、というか、馬場さんも佐佐木さんもご自身が"師"という立場にあることをほとんど意識していないとお話なさっていたことに、少し驚きました。

いわゆる結社を牽引する立場にあるからには、"弟子"にあたる人たちには何かを課しているとか、先生然としたスタンスを持っているのだと思っていたのですが、そんなことはないようです。それでも、両氏が持っている魅力が人に後を追わせるという、そういうことなのだと思います。

実際、馬場さんも佐佐木さんもやはり貫禄は十分で、お話も面白くて、それぞれの結社に参加したいと思う人の気持ちもとても分かるような気がしました。

それから、今回の講座で使われた資料は大井さんが作られたそうなのですが、パネリストの短歌だけでなく、馬場さんや佐佐木さんの"師"にあたる窪田空穂や佐佐木信綱などの文章なども引用してまとめられたものが配布されたので、とても参考になりました。
黒岩さんもユーモアのある方で、ボクは"この人おもしろい"ってメモまで書いてしまいました。そしてそれと同時に真面目な人だなあという印象も受けました。

穂村さんの声も聞くことができました。想像通りのやわらかいしゃべり方で、想像よりも高い声でした。ぼんやり話を聞いているようで、要点はきちんと押さえて(司会として)まとめ直したりもしていて、(エッセイなどを読む限り)いろいろなことができない穂村さんですが、頭のいい人だと思いました。


この公開講座は10月まであと3回開かれるので、もし興味を持たれた方は、現代短歌協会のホームページで詳細を確認してみてください。


ボクは、とりあえず、今年の題詠blogマラソンを終わらせてから、今日聴くことができた話をまたいろいろと思い出してみようと思います。
  
posted by 磯野カヅオ at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月28日

和泉式部のこと(沢の蛍編)。

今日は、和泉式部のこと。

和泉式部に関する概略については"冥き道編"をご覧ください。

○冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
○黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき
○もの思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
○つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来ん物ならなくに
○鳴く虫のひとつ声にも聞えぬは心々に物や悲しき

飾らずに愚直なまでに率直に詠むのが和泉式部。そこに在る恋の気配だったり孤独感だったりを、そのまま味わえばよいのだと思います。


さて、和泉式部について書かれた本はいろいろとあるのですが、辿り着くのが困難な"和泉式部本"もあったりするので、図書館などで探す時にはちょっと注意が必要かもしれませんです。

「和泉式部」(山中裕、吉川弘文館)
時代背景を踏まえて、比較的客観的に和泉式部の生涯が説かれています。恋愛歌人としてなどではなく、単に和泉式部に関する基本的な情報を知りたいという場合には、参考になると思います。

「与謝野晶子全集第13巻」(与謝野晶子、改造社)
この全集の中にある「和泉式部新考」は、和泉式部の生涯がかなり分かりやすくまとめてあると思います。「和泉式部新考」後に、この内容に対する新説(反論)なども唱えられていると思いますが、それを差し引いても、この文章には目を通した方がよいと思います。
しかし、改造社出版の与謝野晶子全集はおそらく限定された図書館にしか置いてありませぬ。他の全集などに「和泉式部新考」が含まれているものがあるとよいのですが。

「窪田空穂全集第十巻−古典文学論U−」(窪田空穂、角川書店)
この全集の中にある和泉式部関連の文章も、和泉式部のことが簡潔にまとめられていて、参考になると思います。少し規模の大きい図書館であれば置いてあると思います。

「日本詩人選8−和泉式部−」(寺田透、筑摩書房)
和泉式部が詠んだ個々の和歌に焦点を当てて読み解きつつ、和泉式部の生涯についても触れています。先人の研究成果を踏まえつつ寺田氏独自の見解も述べられていて良いと思います。ある程度和泉式部の全体像を掴んだ後で読むと分かりやすいです。

「和泉式部集・和泉式部続集」(清水文雄校注、岩波書店)
例えば、丁寧に評釈の書かれた「和泉式部集全釈」(佐伯梅友,村松治,小松登美共著、東宝書房)という本などもあったりするのですが、清水氏はこの「和泉式部集全釈」も踏まえて校注を加えているみたいなので、清水氏の方で十分かなと思います。シンプルで分かりやすいし。
しかし、この本も普通の図書館では意外と目にすることができない一冊かもしれませんです。古書店などには置いてあったりするのでしょうか。

※その他、和泉式部の和歌および日記そのものについては、
「和泉式部日記」(清水文雄校注、岩波書店)、「日本古典全集−和泉式部全集−」(与謝野寛,正宗敦夫,与謝野晶子編纂:校訂、現代思想社)、「新潮日本古典集成−和泉式部日記・和泉式部集−」(野村精一、新潮社)、などを参照のこと。


"冥き道編"に続いて"沢の蛍編"の最後まで、つまりここまで読まれた方は、きっと"和泉式部のことをちょっと知ってみたいかも"と思った方に違いありません(思っていなくてもいいのですが)。生涯を通して自分自身に翻弄されたであろう和泉式部の人となりを知ってみたいと思った方は、そのよすがとして、歌集や日記などに目を通してみるのもよいのではないかと思います。


それでは、また。
 
posted by 磯野カヅオ at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

和泉式部のこと(冥き道編)。

今日は、和泉式部のこと。

和泉式部は平安時代中期の歌人です(生没年については諸説あり)。小倉百人一首には「あらざらんこの世の外の思ひいでに今一たびの逢ふこともがな」という和歌が入集しており、@「和泉式部集」(正集・続集)という歌集やA「和泉式部日記」を残しています。
※@は正集と続集以外にもいくつか派生本があります。

和泉式部のことが直接分かる史料は上記の@、A以外にはほとんど残っていない上に、@については内容が編年順に並んでおらず、Aについてはとても限定された期間の内容であるため、それ以外の史料(「栄華物語」や「大鏡」など)の情報も組み合わせて和泉式部の生涯を輪郭付けするという形で研究が進められてきているようなのですが、そんな和泉式部の生涯で取り上げられる点というのはだいたい決まっています。

大まかなポイントは以下の通りです。

○和泉式部の生年は974,966,974,978,979年など諸説ある。

○橘諸兄の後裔である橘道貞と結婚する(995or996年頃)。
※橘道貞の生年は未詳です。

○時の天皇の一系譜である冷泉院の皇子=為尊親王と親密になる(1000)。
⇒この時、為尊親王は24歳。
⇒道貞とは別れることになり、和泉式部は親からも勘当される。

○為尊親王が26歳で薨去(1002)。
⇒為尊親王薨去後も、和泉式部は道貞のことが胸の内にあり、この頃に詠まれたと思われる道貞に関する和歌の内容も複雑なものである。

○為尊親王の弟の敦道親王と親密になる(1003)。
⇒この時、敦道親王(帥宮)は23歳。
※「和泉式部日記」は敦道親王とのやりとりが和歌を交えて日記体でまとめられたものです。

○敦道親王が27歳で薨去(1007)。
※歌集の中の帥宮挽歌群が有名です。

○藤原道長の家司である藤原保昌と知り合い、結婚する(1009)。
⇒敦道親王薨去後、出家することも考えた和泉式部が保昌と結婚するも、この頃に詠まれたと思われる和歌にも苦悩を詠ったものが少なくない。

○藤原保昌が79歳で死去(1036)。
※和泉式部はこの前年に亡くなったという説が有力なようです。


なんといいますか・・・多情?奔放?恋愛体質?
和泉式部は上で名前を挙げた男性以外との噂も絶えなかったそうで、例えば、最初の夫である道貞との間に子が生まれた時も、"誰の子か分からない"というような世評があったりしたそうです。

でも、和泉式部の研究をしている人たちはだいたい、和泉式部が孤独だったということも書いているし、僕も和泉式部のことを"多情の人"という一言だけでは片付けたくないと思ったので、今回は和泉式部を取り上げてみたのですが、ね。


"沢の蛍編"では、和泉式部のことを知る手掛かりとなるものなどについて触れてみたいと思います。
 

posted by 磯野カヅオ at 06:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月31日

西行のこと(義清編)。

今日は、西行のこと。

西行に関する概略については"佐藤編"をご覧ください。

○女郎花わけつる野辺と思はばやおなじ露にし濡ると見てそは
○ひとり寝の友にはならで蛬鳴く音をきけば物思(ひ)そふ
○いかにせん影をば袖に宿せども心のすめば月のくもるを
○西へ行(く)しるべとたのむ月影のそらだのめこそかひなかりけれ
○さしいらでくもぢを過ぎし月影はまたぬ心ぞ空にみえける

西行の歌にはとても長い詞書の付いたものがあり、どんな状況で、あるいは誰に対して詠まれたかなどがよく分かる歌もあるのですが、その一方でいつ詠まれたか分からない歌も多く、例えば、西行の歌集の中で最も有名な「山家集」の和歌についても、詠まれた時期が分からないものが多いようです。
※「山家集」にもいくつかの種類(写本の系統)があります。

そう、西行って、実は分からないことが多い人なのです。
そして、そこがまた西行の魅力なのだと、思います。

そんな西行のことについて書かれた本のうちオススメのものを、以下にいくつか挙げてみます。

「西行・山家集」(井上靖、学習研究社)
詠まれた時期が判明している和歌を並べつつ、西行の生涯とその歴史的背景に触れる構成になっていて、「西行物語絵巻」の絵なども挿入されているので、西行に関する全体感をイメージしやすい一冊です。

「西行−花の下にて春死なん−」(有吉保、集英社)
西行の生涯を辿る上では手に取りやすい一冊だと思います。とてもシンプルですが、最後に付いている西行略年譜なども何気に親切だと思います。

「歌人西行−生活と歌−」(窪田章一郎、短歌新聞社)
西行の生涯&和歌の解説が載っている、こちらも西行の全体像をつかみやすい本です。図書館などで見つかれば、読んだ方がよいと思います。
ちなみに、この本の中の「西行の生涯」の項は、西行の生涯を中心に「西行の研究」(窪田章一郎、東京堂)を要約したものだそうです(あとがきより)。

「西行山家集入門」(久保田淳、有斐閣)
タイトルの通り、歌集「山家集」に関する評釈本です。「山家集」以外の和歌についても少し触れています。久保田淳といえば「新古今和歌集」の訳を行っている人でもあるので、そのつながりで手にしてみるもよし、あるいはさらに「久保田淳著作選集」(久保田淳、岩波書店)の第一巻(←西行初心者向きではないが)で、久保田氏の語る西行に触れてみるもよし、です。

「西行の思想史的研究」(目崎徳衛、吉川弘文館)
西行の出自や妻子の有無などについて、時には他の西行研究者(川田順氏や窪田章一郎氏など)の見解なども引き合いに出しつつ肯定or批判しながら、ひとつひとつを丁寧に検証and論述しています。こういう仕事をする人がいて判明していく事実があるのだなあと、しみじみ感じる本です。かなりディープな内容だと思うので、ある程度西行のことが分かってから、でも西行のことを知ろうと思うのであれば必ず、手に取りたい一冊です。

※西行の和歌そのものについては、
「日本古典文学体系29−山家集・金塊和歌集−」(風巻景次郎,小島吉雄校注、岩波書店)、「ワイド版岩波文庫(157)−山家集−」(佐佐木信綱校訂、岩波書店)、「新潮日本古典集成−山家集−」(後藤重郎、新潮社)、その他西行全集などを参照のこと。


出家者=僧侶でありながら、あくまでも歌人で在り続けた西行に惹かれる人は、現代においても案外多いのではないかと思います。時代背景なども踏まえつつ、西行のことを知ってみるのも良いと思います。


それでは、また。
 
posted by 磯野カヅオ at 04:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

西行のこと(佐藤編)。

今日は、西行のこと。

西行[1118-1190]は、平安時代の終わりから鎌倉時代へ移ろうとするまさにその時期、つまり「平家物語」の時代を生きた歌人です。「新古今和歌集」への入集が一番多いことでも有名です。

○そらになる心は春のかすみにて世にあらじともおもひ立つ哉
○今宵こそおもひ知らるれ浅からぬ君にちぎりのある身なりけり
○心なき身にも哀(あはれ)はしられけり鴫たつ澤の秋の夕暮
○なげヽとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
○うとくなる人を何とて恨むらむ知られず知らぬ折もありしを

西行の生涯は、在俗の時代(23歳頃まで)を含めて大きく五つの時期に分けるのが一般的なようです。
@出家までの在俗時代(在俗時代)
出家前は、武士として鳥羽院に仕えていました(時の天皇は崇徳天皇)。また、(諸説ありますが)出家前には妻子がいた可能性が高いようです。

A出家から、陸奥の旅に出る前まで(出家直後時代)
出家してしばらくは都の近くの寺院や草庵に生活し、その後は東山、嵯峨、小倉山などで暮らしたようです。

B陸奥の旅から、四国の旅に出る前まで(高野中心時代-前期-)
生活の本拠が高野山にあった時期です。在俗時代から関わりのあった西住や、他に親交のあった寂然とやりとりをした和歌などが残っています。

C四国の旅から、伊勢へ住居を移すまで(高野中心時代-後期-)
西行の歌集で最も有名な「山家集」はこの時期にまとめられたと考えられています。が、この時期より後に内容が追補された可能性も高いようです。

D伊勢に住居を移してから、河内国弘川寺で没するまで(晩年時代)
この時期には再度陸奥を訪れています。また自歌合二編「御裳濯川歌合」「宮川歌合」もまとめています。

※上記区分は窪田章一郎氏(川田順氏)に因る。


西行は、花(桜)と月の歌を沢山詠んだことでも有名ですが、それはいわゆる平安貴族の優雅な花鳥風月詠のイメージではなく、遁世した日々を生きる中でうまれた歌というか、西行が自身のために詠んだ歌というイメージ。また、恋の歌が沢山詠まれているというのも西行が残した和歌のポイントのひとつだと思います。

そんな西行は、実像を離れてさまざまに伝説化されたりもしているのですが(「撰集抄」や「西行物語」など)、それらが後世まで語り継がれたその要因のひとつは、やはり以下の和歌にあるといってよいと思います。

○ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃

生前、西行はこの和歌を詠み、そしてこの和歌の通りに入滅しました(建久元年(1190)二月十六日)。この日は釈迦入滅の日であり、西行は願いの儘に生涯を終えたことになります。

"義清編"では、西行を知る手掛かりとなるものなどについて触れてみたいと思います。
 
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2008年07月27日

斎藤茂吉のこと(茂吉編)。

今日は、斎藤茂吉のこと。

斎藤茂吉の略歴については"斎藤編"をご覧ください。

○公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな(『つゆじも』)
○あやしみて人はおもふな年老いしシヨオペンハウエル笛ふきしかど(『白桃』)
○いま少し気を落著けてもの食へと母にいはれしわれ老いにけり(『暁紅』)
○しづかなる午前十時に飛鳥仏の小さき前にわれは来りぬ(『寒雲』)
○うつせみは願をもてばあはれなりけり田沢の湖に伝説ひとつ(『白き山』)

生前and死後併せて十七の歌集が刊行された茂吉ですが、"斎藤編"でも少し触れた通り、歌集の制作時期と刊行時期に大きく隔たりのあるものがあります。

例えば、制作時期としては三番目の歌集となる『つゆじも』が制作されたのはだいたい大正7年から大正10年(1918-1922)ですが、刊行されたのは昭和21年(1946)です。

その一方で、十二番目の歌集となる『寒雲』(刊行年で言えばこちらが三番目)は、だいたい昭和12年から昭和14年(1937-1939)に制作され、昭和15年(1940)に刊行されています。

制作時期と刊行時期に隔たりのある歌集は『つゆじも』だけではなく、この点は斎藤茂吉という歌人の大きな特徴のひとつであるといえると思います。

※上記制作時期については、「茂吉の短歌を読む」(岡井隆、岩波書店)、「鑑賞日本現代文学H斎藤茂吉」(塚本邦雄編、角川書店)、「茂吉を読む-五十代五歌集-」(小池光、五柳書院)に因る。


斎藤茂吉についてはさまざまな著作が出版されているので、以下にオススメの本をいくつか紹介してみます。

「茂吉の方法」(玉城徹、清水弘文堂)
茂吉の人生などを絡めずに、純粋に茂吉の短歌を鑑賞するというスタンスで書かれていて、作歌をする上で参考になる点も多く、読みやすいと思います。

「茂吉の短歌を読む」(岡井隆、岩波書店)
飲食の歌、家族の歌、山の歌などテーマを絞っていて、同時代の歌人である島木赤彦や北原白秋などとの比較もあるので、こちらも読みやすいと思います。

「茂吉を読む-五十代五歌集-」(小池光、五柳書院)
茂吉の日記なども参考にしながら五十代に編まれた歌集を読み解いています。読み解き方がユニークで、面白く読める一冊だと思います。

「斎藤茂吉ノート」(中野重治、ちくま学芸文庫)
茂吉や茂吉周辺に関する考察が的確になされているという点で名高い一冊ですが、最初からこれを読むのはちょっと難しいと思うので、簡単な近代短歌史をおさえてからの方がよいと思います。とても良い本だと思います。

「斎藤茂吉随筆集」(阿川弘之,北杜夫編、岩波文庫)
"短歌を詠むだけが斎藤茂吉ではない"のですが、そんな茂吉の随筆がまとまっているのがこの一冊。この本以外にも随筆の内容が含まれる"茂吉本"というのはあると思いますが、この本は文庫ですし、図書館などでも見つけやすいかと思います。

「万葉秀歌」(上)(下)(斎藤茂吉、岩波新書)
茂吉が「万葉集」の和歌の鑑賞をしています。当然のことのように柿本人麿の和歌も沢山出てきていますが。特に「万葉集」初心者に易しいということもないと思うのですが、茂吉にも「万葉集」にも触れることができて、良い本だと思います。

※斎藤茂吉の短歌そのものについては、「鑑賞日本現代文学H斎藤茂吉」(塚本邦雄編、角川書店)、「斎藤茂吉歌集」(山口茂吉,柴生田稔,佐藤佐太郎編、岩波文庫)、その他斎藤茂吉全集などを参照のこと。


斎藤茂吉は、古典和歌と現代短歌の間の時代を生きた歌人の一人であり、短歌だけでなくその人物像もなんとも興味深い人であると思うので、例えば、斎藤茂吉なんて有名な短歌だけ知ってればいいんじゃない?とスルーしてしまっている方は、もう少し深く知ってみるのも良いのではないかと思います。


それでは、また。
 
posted by 磯野カヅオ at 02:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

斎藤茂吉のこと(斎藤編)。

今日は、斎藤茂吉のこと。

斎藤茂吉[1882-1953]は近代短歌史における代表的な歌人です。伊藤左千夫に師事し、大正から昭和前期にかけてのアララギ派の中心的存在でした。

○赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり(『赤光』)
○のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(『赤光』)
○草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ(『あらたま』)
○家鴨らに食み残されしダアリアは暴風の中に伏しにけるかも(『あらたま』)

斎藤茂吉の短歌については、時代背景や茂吉の閲歴などを知っていた方がより理解が深まる面もあったりするので、"斎藤編"では茂吉の略歴をごくごく簡単に。

山形県の金瓶村というところに生まれた茂吉は、小学校、高等科を卒業した後、病院の跡継ぎ候補として東京に上京(1896)、医学部に進学、卒業(1910,茂吉28歳)、そして東京帝国大学医科大学付属の巣鴨病院に研究生として勤めることになります(以後は精神病学を専攻)。

しかし、その三年後(1913)に生母いく、師の伊藤左千夫が相次いで急逝。第一歌集『赤光』の「死にたまふ母」「悲報来」ではこの時のことが詠まれています。

その後、長崎に赴任していた時期があり(1917-1921)、この頃に第二歌集『あらたま』を刊行。ちなみに、続く第三歌集『つゆじも』は、この時から実に25年後に刊行されることになるのですが、この点については、また別のところで("茂吉編"で)少し書いてみたいと思います。

※これ以後の歌集の刊行についてはひとまず概ね省略。

続いて、茂吉は欧州留学の旅に出発します(1921,1922)。
二年後(1924,茂吉42歳)には論文を完成させ、医学博士の学位を受け、その年の末には帰国するのですが、この時、"実家"という位置付けであるところの青山脳病院が全焼したという報せを受け取ることになります。この出来事により、茂吉の蒐めた蔵書類なども全て燃えてしまいました。

茂吉は青山脳病院の再建を担う立場となり、金策などにも奔走(1925)、そして青山脳病院の復興(1926)、さらに、青山脳病院院長に就任(1927)することになります。

50代前半は、柿本人麿の研究に力を注いでいたといっていいのでしょうか。院長を辞めることを決意したりもしましたが(1934)、結局は週一回(週二回)の診察を行うということになりました。またこの年には『柿本人麿(総論篇)』を刊行、後に『万葉秀歌』(上・下)なども刊行されています(1938,茂吉56歳)。

※歌集『白桃』『暁紅』『寒雲』の制作も行っている(1933-1939)。

そして、第二次世界大戦開戦−敗戦期(1940-1945)です。
この時、稀な例外は別として、この大戦の「聖戦」讃歌、「皇軍」不滅歌を歌わなかった歌人はいなかったそうです。茂吉も沢山の、いわゆる"戦争詠"を作りました。

戦争に伴って茂吉も東京を離れ、故郷金瓶に単身で疎開します(後に妻と同居)。青山脳病院は空襲で全焼し、敗戦を迎えることになります。
そして翌年(1946)には、疎開先を大石田に変え(大石田は金瓶から50キロほど北に位置する町)、約一年八ヶ月を大石田で過ごすことになります。この疎開の時期に詠まれた短歌は、生前最後の歌集となった『白き山』に収められています。

それから、茂吉は東京に戻ります(1947)。
そして、文化勲章の授与(1951)、「斎藤茂吉全集」(第一巻)の刊行(1952)などが為され始めますが、最終的には心臓喘息で亡くなりました(1953)。

茂吉の生涯を詳しく追ってみると、なんとも波乱万丈というか、時代の変遷とともに生きた歌人だったのだなということがよく分かります。


"茂吉編"では、斎藤茂吉を知る手掛かりとなるものなどについて触れてみたいと思います。


※略歴については、「茂吉の短歌を読む」(岡井隆、岩波書店)、「鑑賞日本現代文学H斎藤茂吉」(塚本邦雄編、角川書店)に因る。
 
posted by 磯野カヅオ at 02:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

短歌を古語で詠むということ。

こんばんは。今日は、古語短歌の話です。

短歌を始めようとする人の中に古語で短歌を詠みたいと思う方って意外に沢山いらっしゃるみたいなのですが(←特に年配の方?)、短歌入門の本などをを見ると"古語で短歌を詠むのはやめましょう"としている本もあるようで、実際に古語短歌を詠む人というのはあまり多くないのかなと思います。

古語を用いない方がよい理由というのは、@現代の事柄を詠むのにそぐわない(現代の固有名詞や現代語を用いづらい)、A現代とは意味の異なる言葉があるため分かりづらい、などが挙がるようで、第三者が見たときに意味がとりづらい歌ができる可能性が高いというのは確かだと思います。

それでもなお、古典に属する和歌に親しむだけでなく、自分でも古語短歌を詠みたいと考える人は、@古典の本歌取りをやりたいとかA古雅な雰囲気の和歌を技巧的にも楽しみたい、といった人が多いのではないかと思います(@A以外の理由もあると思いますが)。

そして古語短歌を詠む人がその短歌を見せたい相手、その短歌の意味を伝えたい相手というのは、(必然的に)同じく古語短歌を詠む人や古典に属する和歌が好きな人ということになるのだと思います。
※といっても"古語に親しみを感じない方には分かっていただけなくて結構です"みたいな排他的な気持ちがあるとかいうのではなく。

ちなみに、今年のマラソンでは、僕は古語の短歌を沢山詠みまして、古典の本歌取りをやってみたりもしたのですが、基本的には口語で詠むのと気持ちは変わらないというか、その時の自分に見えたりその時の自分の中に在った"今"の気持ちを詠んだ歌ばかりです。

上の方で触れていることと少し重なりますが、古語短歌というのは、サラッと一読して分かりづらい歌もあると思うし、読み手を拒絶するところすらあるのかもしれないけれど、そして自分で古語短歌を詠もうと思えばそれなりの準備も必要だけれど、それでもやはり古語には古語の良さがあって、鑑賞できるようになったり自分でも詠めるようになるというのは、そんなに難しいことではないということを、ここに書いておきたいと思います。

それでは、また。
 
posted by 磯野カヅオ at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月30日

題の位置と冬眠について。

気がつけば10月も終わり。早いですね。

このブログの更新も今日でひとまず終わりです。

「新古今和歌集」のこととか、もっともっと書こうと思っていました。

しかーし、今日も題詠blogの話。


詠み終えた100首の、お題の位置はどうなっていますか?

初句?二句?中句?四句?結句?どこにありますか?

例えば、100首あるうちの90首はお題が初句にきているってどうなんでしょう。

ちなみに僕の場合、

初句:19首
二句:23首
中句:08首
四句:24首
結句:26首 

となっていました。

中句にお題がくることはとても少なかったようです。

中句にお題がくることがとても少ないということはすなわち・・・と考えるのは、自分一人でやります。

お題の位置以外にも、100首あるがゆえに確認できる傾向なんかをいろいろと見てみるのも面白いのではないでしょうか。


ということで、このブログは冬眠に入ります。

もしかしたら、また来年の題詠blogマラソンで使うかもしれませんが、今の時点ではなんとも言えないです。


見に来ていただいていたみなさま、本当にありがとうございました。


磯野カヅオ
 
posted by 磯野カヅオ at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月23日

ちょっと解説を書いてみる。

そろそろゴールなさった方も増え始めている頃でしょうか。

出来やペースのことなどはひとまず別に置くとして、やはりゴールできるというのは嬉しいものです。しばらくは短歌を創らなくてもいいと思う反面、燃え尽き感もあって少し寂しかったりもしますが。

さて今回は、自分の100首のうちの数首について少し解説を書いてみようと思います。

僕も僕なりにいろいろと考えながら100首創ったという、仕掛けなどの解説です(今さらそんなことしなくても・・・と思う方もいると思いますが)。


008:「種」
・彼の子よ種を明かしたその女(ひと)はオリーブの首飾りが似合い

"種を明かした"というのは、この女性がお腹に宿した子の父親が誰なのかを明らかにしたということです。
ではなぜオリーブの首飾りが似合うのかといえば、それは"種を明かす"という表現がマジック(手品)でも用いられる言葉だからであり、マジックショーのBGMの定番が「オリーブの首飾り」だからというわけです。
って、さすがにこれは分かるか。

024:「バランス」
・「会いたい」をひだりに載せたバランスは動揺もせず右に「会えない」

"ひだり"は平仮名で、"右"は漢字、これは僕の入力ミスです・・・というのはウソです。

バランスという言葉を中央に置いて、
左端の「会いたい」までの文字数と、
右端の「会えない」までの文字数を、合わせたのです。
「会いたい」(8文字)バランス(8文字)「会えない」、となっています。

これは、そんなことをしてまでバランスをとろうとしているという歌なのでした。


075:「鳥」
・若葉萌え姿を見せぬ鳴き声の春告鳥は卯月の山に

これは仕掛けでもなんでもありません。
ただ、俳句で用いられる季語をたくさん使っています。
・若葉(夏,五月ぐらい)
・春告鳥(春,ニ月ぐらい、ウグイスのこと)
・卯月(陰暦四月の異名)

四月下旬に山登りをした時に、ウグイスの鳴き声を聞いたのでした。
ウグイスといえば"梅にウグイス"、梅も二月ぐらいのイメージだったので、ウグイスって五月の山でも鳴くんだなあと思い、この情景を短歌か俳句でまとめてみようと考えてみました。

ところが、俳句で季節外れのものを詠むというのは結構難しいのです。不可能ではありませんが、この例の場合は俳句よりも短歌の方がよいと思い、題詠ブログの中の一首にしました。


008や024のような仕掛けは、他の歌にもあります。
こういった仕掛けのある歌を創っておくと、自分の楽しみも読み手の楽しみも増えるのではないかと思います、手間は少々かかりますけどね。
 
posted by 磯野カヅオ at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月29日

「朝日歌壇(2007)」のこと。

今回は何をテーマに書こうか少し迷いました。

まぁ何をテーマに書いたところで、何か特別な情報が得られるブログというわけでもないのですが。

ただ、自分の中では、古典or和歌に絡んだことを書こうという前提があるので、「源氏物語」や古典文法に関する話が続いてきて、例えばここで「徒然草」や「枕草子」を選んでしまうと、古典系ばかりが続いて和歌の話にあまり触れない内容が続いてしまうしなあとか、そういった点で少し迷ったのでした。

ということで、今回は直球勝負、某新聞に昨年掲載された短歌がまとめられた冊子「朝日歌壇(2007)」を手にしてみました(どの新聞だか分かってしまいますが)。

ところで僕は、短歌集や詩集、句集の類などは今まであまり読んだことがないのですが(「新古今和歌集」など古典系はあります)、新聞などに掲載される短歌には古典チックな言葉が沢山使われているものとばかり思っていました。確かにそういう形式で詠まれた短歌もあるのですが、いわゆる現代短歌が多く並んでいたことにとても驚きました。

プロの歌人などは古典形式の和歌を詠む場合の方がおそらく多いと思うのですが、新聞は短歌の専門誌ではもちろんありませんから、当然と言えば当然ですよね。驚くツボを間違えている気がします、自分。

さて、では内容はというと、実にさまざまな題材を詠み込んでいます、某新聞を購読なさる方々。
時事問題や社会問題はもちろんのこと、家族の成長や冠婚葬祭、旅情の描写や日常の一コマなど、極端に言えば"なんでもアリ"で、中にはユーモア重視の和歌も見受けられました。

例えば・・・と、いくつか気に入った短歌をここに載せてしまえば早いのですが、そういうことってどの程度まで許されるのかよく分からないので、やめておきます。

形式を重視して、嘆きや憂いを切々と詠む短歌も好きですが、感じたことをそのまま短歌として切り取っておくのも良いなと思いました。

あるいは、古典形式を採るのであれば、やはり文法などにはある程度気を遣った方が良いように思います。見た目には正しく詠めていても、意外に間違えやすいポイントというのがあるようです(完了・過去の助動詞の使い方はかなり間違えやすい)。


このブログを書く発端となった「題詠blog(2007)」では、与えられたお題の言葉を含めた短歌を創るということで、そのお題にまつわる自分の身の回りのことを詠み込んだ歌が多くなりがちでした、ボクは。
でも、気になる時事問題を風刺してみてもいいし、自分が目撃した(自分とは直接関係のない)一つの場面を詠んでもいい。そういったことにも改めて気づかれる内容でした、ボクにとっては。

"新聞に投稿される短歌なんて日常的に気にして見ています"という方もいると思いますが、そうでない方は、ちょっと気にして見てみるのも面白いと思います。
posted by 磯野カヅオ at 19:50| Comment(0) | TrackBack(1) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月23日

大野晋さんのこと。

お久しぶりです。こんばんは。

早速ですが、今日は、大野晋(オオノ・ススム)さんの話。

大野さんは(1)「岩波古語辞典」や(2)「類語国語辞典」(角川書店)の編纂に携わったり、日本語の起源などについてもいろいろと著作の多い、国語学者です。

今日、大野さんのことを書くのは、僕が古語で短歌を創る時に、(1)や(3)「日本語の文法(古典編)」(角川書店)という本がとても参考になったからです。

(3)はもう絶版になってしまっている古い書籍なのですが、動詞や形容詞、助動詞などの活用は機械的に覚えなければいけないながらも、訳し方については、その理由や元になった語などにも触れた解説が載っているので、誠実で親切な文法の本だなあと感じることができるのではないかと思います。

(1)に載っている、助動詞や助詞に関する解説も、丁寧で好きです。単に易しい文法書というのは、すぐに内容を忘れてしまうのですが、大野さんの文法解説は易しさをウリにしているのでは決してなく、理屈や語源も知っているといいですよというスタンスなので、むしろ何度か読んで実になるというカンジではなかろうか。

なので「古語で短歌なんて難しすぎる・・・」とお考えの方は、まずは大野さんの日本語に関する著作(現代語に関するものでも可)を読んでみることをオススメします。

それで、大野さんの書きぶりが気に入るようであれば、(3)や(1)を手に入れてみるというのがよいでしょう。

ちなみに大野さんは、以前にこのブログにも登場している丸谷才一さんとも親交がおありのようで、(4)「日本語で一番大事なもの」(中央公論社)という本では、主に日本語の助詞について(含む古語)、対談形式で論じ合っています。こちらは結構ディープな内容だったと思うので、一応ご参考までに。

現代語での短歌の創作に慣れたアナタ(様々)、この辺りで古語短歌の創作も楽しみに加えてみるというのはいかがでしょうか。

ではまた、忘れた頃に。ごきげんよう☆
 
posted by 磯野カヅオ at 21:48| Comment(0) | TrackBack(1) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月19日

「源氏物語」のこと。

「源氏物語」の話は前回イヤというほど書いていたじゃあないか、ですと?ノンノンノン、前回は「源氏物語」を題材にした作品の話だったのですが。

ということで、今日は「源氏物語」の話。
残念ながら「あさきゆめみし」とかは出てきません。念のため。

西暦1000年より少し後に起筆(成立年未詳)、紫式部によって書かれたとされている「源氏物語」。世界最古の長編恋愛小説に位置付けられるこの物語を読まずして「世界の中心で、愛をさけぶ」とか読んでいる場合ではないのです。
※「世界の〜」は原作を読みました。この作品を非難しているわけではありません。ええ決して。

五十四帖(帖=章みたいなもの)からなるこの物語、"とても千年前に書かれたとは思えない現代にも通ずる人間模様が描かれている"みたく、あちらこちらで評されておりまして、それは本当にその通りだなと思います。

人間関係の複雑さについては今さら肯定するまでもないのですが、何が人間関係を複雑にしているかといえば、そう、それは"恋"。
平安時代中期、男女の関係になる際には、強姦(和姦?)という形式がとられる場合も多々あったようですが、実に沢山の恋の花火が打ち上げられては消えていく・・・そんな側面が、この物語にはあると思います。それと下地として在る仏教もポイントですね。

五十四帖の中で特に良いとされているのは「若菜(上)(下)」。物語としては「若菜(上)(下)」の前までを一つの区切りとすることができ、「若菜(上)(下)」はいわば第二部の始まりみたいな部分になるのですが、全体の中でも大きな転換点に当たる帖なので、せめてこの辺りまでは読みたいものです。実際、ここまで読むのはさほど難しくありません、全体の半分辺りのところだし。

でも、それとは別に「玉鬘十帖」とか「宇治十帖」とか、部分的に取り上げられて名付けられた帖群もあるので、"源氏物語ってイイよね"
と言いたいのであれば、やはり一度は通して読むべきでしょう。

ちなみに僕が好きなのは「夕霧」。本筋とはちょっとズレる内容ですが、すごく印象に残ります。現代の話として考えても面白いし、特に男性は苦笑させられる内容なのではないかと思うのだが。

んで、ここで「源氏物語」の詳細を語ってしまっても全く意味がないので(というか語りきれませんが)、今日は「源氏物語」現代語訳本をいくつか紹介してみようと思います。
もちろん、自分が手を出した範囲でしか薦められませんが。僕も、いくら「源氏物語」が好きとはいえ、「源氏物語」ばかり何度も通して読んでいるわけにもいかないので、あくまでもご参考ということで。

(1)瀬戸内寂聴訳(講談社・全十巻)
(2)田辺聖子訳(新潮文庫上・中・下巻)
(3)与謝野晶子訳(角川文庫上・中・下巻)

有名どころばかりで恐縮ですが、この順番に読みました。
ちなみに(2)は途中で読むのをやめて、(3)は(1)を読んだ時に印象に残っていた帖を(1)と読み比べてみました。

(1)は「源氏物語」初心者にはかなりオススメです。読者をかなり意識した文体になっていて、単純に物語の筋を知りたいのであれば、(1)はかなり親切な部類に入ると思います。
例えば、原典では同じ人間に対する呼び名が(突然)変わるところを、(1)ではできるだけ呼び名を変えずに表記してくれています。また、巻頭には人物相関図、巻末には訳者のプチ解説もついているので、理解の助けになります。

(2)を(1)の後に読むと、物足りなく感じると思います。(1)のダイジェスト版みたいな印象。(1)の内容を忘れないうちに(2)を読めば、簡単な復習には使えるのではないでしょうか。"(2)は良くない"ということではなく、読む順番に因るということだと思いますが。

(3)は正統派。河出書房新社の日本文学全集のトップが与謝野晶子訳の「源氏物語」です。でもちょっとカッコをつけて(3)から読み始めると、途中で挫折してしまいそう。(1)で大筋を掴んだあと、(3)で理解の偏りを調整するというイメージで読むとよいのではないかと思います。
例えば"(1)ではやや退屈に感じて読み進めた「榊」という帖にも、案外大切なことが書かれていたんだよね"みたいなことを再確認することができます。

その他では、橋本治訳もかなり読んでみたかった。橋本治が好きな人は橋本治訳でも良いでしょうね、どう訳されるのか気になります。
もちろん谷崎(潤一郎)源氏とか円地(文子)源氏とか、定番は定番としてかっちりあるようですが。

ついでに和歌の話とちょっと絡めてみるならば、「万葉集」が編まれてしばらくした後に「源氏物語」が誕生し、それからだいたい200年後に「新古今和歌集」が編まれたという流れになります。
これらに相関があることは言わずもがなでしょう。

ということで、興味の湧いた方はヒマがあったらチャレンジしてみてください。
posted by 磯野カヅオ at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月24日

「輝く日の宮」のこと。

「題詠blog100首マラソン(2007)」用にアップした短歌についてコメントをいただいたことに気づき、嬉しくて仕方がないので、何かアップしようと思って書いているのが今日の内容。調子いいな、自分。

覗きに来ていただけることを確認できるだけでももちろん嬉しいのですが、具体的にコメントをいただけるということもやはり嬉しいものです。
でもその気持ちというのはここに書いておけばコメントをいただいた方には分かっていただけるのでしょうか。
鑑賞サイトのシステムがイマイチよく分かっていない自分がいます。あるいは、いただいたコメントの後に自分のコメントを書いておけばいいのか?ブログの勝手もよく分かっていません。

ちなみに「題詠blog100首マラソン(2007)」については、今年の5月と6月は少し忙しくなると思っていたので、なので早い完走を目指したというのも、実はあったりしました。まぁそれはそれでよかったんですけどね。


では本題に。今日は丸谷才一さんの「輝く日の宮」という本の話。

・「源氏物語」には「輝く日の宮」という帖があったのではないか?
・「源氏物語」の全ての帖は、二つの系統に分けて書かれたのではないか?

といった大胆な推測がなされているのが、この「輝く日の宮」という作品。特に二点目の方は、ただ"源氏物語が好き"というぐらいでは到底提示できない推測です。

物語の中では主人公の女性国文学者がこの仮説を唱えるわけですが、「源氏物語」の創作については、この二点以外にもいろいろな説が唱えられており、全ての帖を読み終えた後で、そういった説について考えてみるだけでも、楽しいのではないかと思います。

また、この「輝く日の宮」という作品、「源氏物語」をきちんと読んだことがなくても楽しめるのです、もちろん「源氏物語」に全く興味がないという人には退屈だと思いますが。

"日本の古典に興味があって「源氏物語」もちょっと長いけど読んでみたいとは思っている"といったような人は、この「輝く日の宮」を先に読んでみるのも悪くないと思います。「源氏物語」が未読の人にとっては「源氏物語」を読んでみたい!という気にさせる作品でもあるのです。

構成も凝っています。
各章の文体がバラバラで、主人公の一人称視点があったり、新聞記事のように事実を列記したり、戯曲形式だったりと、まるでジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」のよう。それは丸谷氏が「ユリシーズ」の翻訳を行っている(他の訳者と分訳)という点と無関係ではないものと思われ、丸谷氏の文章の旨みも味わうことができるというわけです。

「源氏物語」や百人一首が好きだという人は、丸谷才一さんのこともきっとご存知で、すでに「輝く日の宮」も読んでいることでしょう。

短歌を詠んだり鑑賞したりするのが好き→「源氏物語」に出てくる短歌も味わってみる→「源氏物語」を読んでみる→「輝く日の宮」も読んでみる、みたいな流れでもって(意外に迂遠だが)、おヒマのある方は「輝く日の宮」に手をのばしてみてください。
 
posted by 磯野カヅオ at 01:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 和・古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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